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たとえば、貧乏な家に生まれても尊敬できる親に育てられたら、それはその人の一生の情緒性にきわめて有効に作用します。 褒めてくれる親、別にお金をくれと頼るのではないにしても、なんだか気分的に最後に頼れる親が身近にいますと、どんな悪党だって、必ず更生の端緒につながります。 次に師ですが、これには学校の先生も含まれるかもしれませんが、必ずしも先生ばかりではありません。自分の日常の生き方の根本を教えてくれる、これが師です。 「心の師となっても、心を師とするなかれ」 という言葉があります。 これはもともと自分の心には、いろいろな欲望が渦巻いているので、そのような心を師として、心が指示するままに生きたらダメということです。 また、 「経師(けいし)には会いやすく、人師(じんし)には会いがたし」 ともあります。 お経を唱えるお坊さんには、いつも簡単に会えますが、多くの人の心の師になるような人には、会いたいと願っても、めったに出会えるものではないということです。たとえば、釈尊、孔子など古聖前賢(古代の聖人や前代の賢人)の人などです。 そういう師は、親の優しさとは違って、穏(春)やかな人柄なのに厳しさ(冬)があり、威厳(秋)があって猛々(夏)しくはなく、心から敬えて、まるで春風の中にいるようなもの、それが師です。 そんな完全な師がいるかと思われるかもしれませんが、実は自然がそれです。自然を見習って師とするなら、誰でも素晴らしい師が得られるはずです。また直弟子でなくても私淑できる師もいるでしょう。それを思いますと、まず、自分が人の子の親や師として尊敬されたい人間でありたいと思います。 もちろん、親も師も最初は人の子、若いときにはいろいろあったでしょうが、子どもや弟子から見れば、何歳になっても親や師は伝統工芸品のように完成されたものなのです。追慕の念が年とともに深まるから不思議なものです。 今は知る人も少ないでしょうが、幕末の頼山陽(芸州広島の人。日本外史の著者。1780〜1832)、吉田松陰など、みな親思いの人でした。当人たちが親思いであるということは、とりもなおさず、その親たちがみな偉かったのです。 ここでいう偉いとは、立身出世の偉さではなく、貧しい中にも子どもに対する愛情が人一倍深ければ、お金のあるなしにかかわらず、地位の高い低いにかかわらず、誰でも子どもから尊敬される親になれます。だから、この件に関するかぎり子どもに対する愛情に偏りがなければ、安心していいでしょう。 しかし、今日(こんにち)、いつ、だれがわが子を虐待し、わが弟子を裏切らないと言い切れるでしょうか。 みなさんの交友関係にある人の日常会話のなかで、一度も親や師のことを口にすることのない人は、どれだけその人が社会的に偉くても、親とか師に関するかぎり、何かそれらの人とのあいだがウマくいっていないか、親や師を尊敬できない人と推測でき、そのぶん不幸な人といえます。 親のことをいうのは親離れしない証拠だから恥ずかしいと思う人もいるでしょうが、そんなことは全然ありません。大いに親を礼賛すべきです。広い世間、見る目を持った人からすると、そこが将来の運勢の展開に、どれだけ大きな影響を及ぼすか、これは誰にもわかりませんが、とにかく親とは、かくもありがたいものです。 そして、 自分の師を尊敬できないか、人に自慢できない師を持った人か、あるいはもともと全然師と呼ぶ人がいない人は気の毒です。そのような人は、今さらどうしようもないので、せいぜい「自然を師」にして勉強し、かつ、生きることです。 |
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