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これは、現在の私たちの大多数の人に当てはまるのではないでしょうか。 別にそれが悪いというのではありません。戦後、日本人全体が知恵を出し合って真面目に真剣に生きてきた結果、日本が復活して隆盛を迎えたからです。 ですが、この言葉の意味は、いつの時代になっても重いのも事実です。 かつて東京オリンピックが始まった1965年(昭和40年)ころから、日本は高度経済成長期に入り、投じの子どもは生まれたときから家に電話があり、やがてテレビが普及し、クルマさえ一家に一台という時代になったので、厳しい生活経験がないのは当たり前です。 その切り花にひとしい子どもたちが、大人になったらどうなることでしょう。 それは、すでに私たちの目の前で繰り広げられています。 自己中心的、相手のことを思いやったり、相手に心を通わすなどという気持ちを持つはずがありません。 親や先生から、それに関するものは何も教わらなかったし、その親や先生すら、いわゆる戦後の教育で育ってきた人たちですから、とうの昔にみんながおかしくなっているのです。 そのおかしさが常態化し、常識化しているところに、現在の悲劇はあるのです。 戦後強くなったのは女性とナイロン靴下などと、かつて揶揄されたこともありましたが、男がどれだけの苦難に耐え、ある場合には命がけともいえる努力をして家族を守っているのに、なかには家でホケーッとテレビを見ながら、夫のふがいなさを罵る女性もいるのです。 そんな女性たちこそ、厳しい風雪に耐えてのち、美しい花を咲かし実をつける地生えの草花ではなく、温室育ちの根のない切り花にたとえられてもしかたがないのではないでしょうか 。 『霜を経て 匂わざりせば 百花(ももはな)の 上には立たじ 白菊の花』 と古歌にあります。 これは秋の長雨や冷たい霜に打たれるなど、いろいろな苦労をしてこそ、多くの人の上に立つ人物になれるという意味です。 人の上に立つには、何をどうしたらよいのかとの斬新な企画、たゆまない行動、多くの人を引っ張っていく度量、尽きることのない人間的な魅力など、つねに人を触発さす素質を持ち合わさなければならず、そんなものが少しもない平々凡々の人生の中で、しかも何不自由なく成長した人に待ち受けているのは、つらく寂しい老後だけでしょう。 ★ 幸せ生活への再認識 それでは、永続的で幸せな生活を送るためには、どういう方向があるのでしょうか。 その方法とは、英知に裏づけされた物心両面のバランスを欠いて人間の幸せがないことを認識するとともに、何よりも、「本能が命じるままの欲望を満たす時代」が、終わったことを知る必要があります。 これからは、欲望で動くのではなく、基礎的な教育や人間としてあるべき心の教育によって培われた知性豊かな生活を考えるときではないでしょうか。 つまり、正しいしつけと心の教育こそ、将来を背負う立派な子どもができるのだと思います。 @ 礼儀作法や人を敬い、慈しむ心と、自己抑制が働く正しいしつけを身につけ、しっかりした根性の子どもに育てる。 A 自己欲を満たす欲望と違う、人としての大きな目標を持つ。 20歳までは自己中心でも良いかもしれませんが、それからの10年、つまり30歳までは自分が住む地域のことを考え、そののち10年は日本のことを考え、そして40歳になったら世界のことを考える人間になるのが、本来の正しい大きな目標のような気がします。 B 立派な人格者になることを目指す。 立派な人格者とは、誠実、勤勉、節制、沈黙、節約、正義、中庸、純潔、謙譲などの日本固有の美徳を身につけた人。 |
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