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イザというときの、このイザというときの定義は難しいですが、おおむね次のようなときだと思っていいでしょう。 自分の人生で、 「最高の判断や行動が問われるとき」 「最も重大な運命の分かれ目」 「その事柄による悪い影響が子々孫々に及ぶとき」 と規定され、あるいは社会のために、この身を投げだすくらいの何か大きな仕事をするときくらいしか使わない言葉でしょう。 だからそのような事柄とか事件が起こらない普段に、そんなときのために、 @ 人格の形成 A 良い人間関係の構築 B 幅広い知識の修得 C 危機意識の徹底 などに十分な準備や心構えをしておき、あまりガタガタ騒がないことです。 それがその人の才覚であり、それがどのように展開し、それがどのような結末を迎えるかは、その人の日頃の人徳によるところが大きいと考えられます。
理不尽(スジの通らない常識はずれ)という言葉があります。 だいたいは利益獲得中心に動いている人間が多い世の中だから、彼らに恩を着せるのは、してはいけないことなのでしょうか。 いや、そうではなく、そういう人たちには、ズバズバ言ってやるべきで、恩を着せるような気持ちで対応するのは愚かなことです。 彼らは、もっともっと頭を打たれなければ、どっちみちわかりっこないのですから。 徳川初期の剣術指南・柳生宗厳(やぎゅうむねよし)の次男に義仙という、めっぽう剣術に強い男がいました。 その男が、 「死ねば仏じゃ。なまなかに兵法者面(へいほうものづら)しておるより、まっとましじゃ。自分の真の姿を知らぬものほど世に見苦しいものはない。とりわけ兵法などを使う者がそうじゃ。己のつたなさを知らず、おろかな試合を挑んで人を傷つけ、人を泣かす。そういうヤツは容赦なく武芸をあきらめさせるにかぎる。生兵法を生かしておくより、いっそ成仏させたほうが世も無事であり人もおさまろう。ワシはそれゆえ、情け容赦なく打ちすえる。たとえ障害者になっても、悟りきらぬヤツは斬る。ワシのこの武芸が邪道なら、そんなワシに斬られる手合いの兵法はよくよくおろかにできておる。しょせん、ものの用には立つまいて。仏の慈悲は無限じゃ。ワシも許される。ワシに斬られるヤツも許される。剣に仁などありはせんぞ」 と言ったということです。 この義仙の言葉は今でも立派に通用します。 常識のないものに接するのは、それほどに難しいことと考えておかなければなりませんが、私たちもこれを心に刻んでおきたいものです。
地位や名誉ほど当てにならないものはありません。 まるで空に浮か白雲のようなもので、いつどこへ飛び消えてしまうかもしれません。だから、一時の地位や名誉にとらわれるほど危険な生き方はありません。 そうでなくても、妬みや謗りが多い世の中です。かつて選挙で当選した某氏、学歴詐称とかで話題になり、ついては辞職したのも、他人の妬みから出たことではないでしょうか。いつなんどき、細かなミスをあげつらい、足を引っ張られないともかぎりません。 この世に不動の幸福などありません。いつまでも変わらないものは一つもなく、それを無常といいます。どれだけ地位や名誉にしがみついていても、無常の風がひとたび吹いたら誰だって、ひとたまりもありません。みんなこの世に残して死んでいかなければなりません。 あらゆるものが時々刻々移り変わるのが、世のならいです。 それを思うなら、生きている今をどう生きるか、自分が作った人生の作品はなになのかなど、一度じっくり、考える必要があるのかもしれません。
愚を重ねるとはこの場合、よほどの変人を除き、だいたいは前後の見境もなく欲の皮を突っ張るか、たいしたことでもない自我を前面に押しだすことをいいます。 世の中の間違いは、すべてこの過大な欲望や自我から起こります。 人間関係がウマくいかないのも自己評価を高くしたり、欲得勘定が原因の場合が多いです。そういったときには、一度、原点に帰ることです。 『山川の 末に流るる 栃殻(とちから)も 実を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ』 との歌もあります。栃の実(この場合、わが身)を一度すっきり整理するか、心をすっかり入れ替え、やり直すと、再び浮かび上がるという意味です。 人生に失敗して仏門に入るのは昔からよくある話です。これも一つの選択肢ではあるでしょうが、これは、現在では通用しません。 過ちを知らない賢者より、失敗の経験を持つ愚者のほうが、ときとして、より確かな人物ともいえます。これだから、人の世はなかなか面白いのかもしれません。 |
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