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変な方法とか奇手(いっぷう変わった方法)と言われるものは、統一された理論がないため、必ず正当な方法には敗れるものです。しかし、そんな方法でも、ときには事がウマく運ぶ場合もありますが、全勝はありません。 いわゆるラクをしてカネもうけができるとは、この世でただの一つもありません。どんな人生でも、それは綿密な経営にたとえられます。 そうした考えに立ちますと、おのずから結果は出ようというものです。 ラクしてカネもうけは絶対にありません。もちろん、いい生活なんて望むべきもありません。 子どもの魚釣りで、たまに請いフナがかかることがあるかもしれませんが、実際、それを継続して捕ろうとするなら、綿密に計算された仕掛けが必要です。
失敗してからでは遅いと言われたりしますが、 孔子は、「人生は棺をおおいて定まる」と言っています。 要するに、その人が死んでからでないと、その人の人生が良かったのか、そうでなかったのかは、いちがいに言えないということです。 古い言葉に、 「人の常情、敗れたるものは天の命を称して嘆じ、成れるものはおのが力を説きて誇る。二者ともに愚か者とすべし」と。 常識から言いますと、失敗したものは自分に力がないのではなく、たまたま運が悪かっただけだと「運のせい」にし、成功したものは「努力の成果」として自分の力量を過大に誇る。このようなものは両方とも愚か者であると。 失敗したら自分に力がないと反省し、成功したら、たまたま運の助けがあったからと謙虚に考えるものは味わい深い人生を送れる。 小人(自我の主張と損得を生きる目標にしている人)は、わずかな損得で一喜一憂します。 だから少しの儲け話でもあると、ワアーと集まり、少しの損害で人間関係が断絶します。そのようなタイプの人に人間的な重み(この場合、中庸とか謙譲の精神)とか深み(節制とか沈黙とか正義)などありようがありません。 それより、なぜ失敗したのかという自分の内面に対する厳しい反省が、次のステップへつながりますが、正直なところ、人生はおそらく死ぬまで失敗の連続と、日々反省の連続かもしれないですね。 要するに、失敗が問題なのではなく、真剣に反省しないことが問題で、これを繰り返していくうちに、人間の重みと深みが生まれてくるのです。
人の一代は山あり谷あり、平安な道を歩めることなどめったになく、希望の先が見えない手探りの日々が、延々と続くものです。 まして、明日のわからない人間の弱さにつけいる不安。それから生じる焦りと迷い。人間とはよほど業が深く創られているのなのだと、つくづく考えさせられます。こんなときは、わざわざ山登りをして澄んだ空を見ようなどという気持ちは起こらないし、そして心はますます落ちぶれていきます。 しかし、ここが大事な分かれ目で、分水嶺です。 心機一転、ちっぽけな自分を捨てて、新しい世界に飛びだすのです。そこになにかを模索する気持ちがないと、味気ない日が、これまた延々と続きます。 そんなとき、関西に良い言葉があります。 「よい鳥はバタつかん」と。 ニワトリやハトは、いつもセカセカと餌をあさっていますが、ワシやトンビはゆうゆうと大空を飛んでいます。要するに、慌てず、小さなことにクヨクヨせず、泰然自若としているのです。 『鴻鵠は一挙に千里なれども、恃むところは六かくのみ』 鴻鵠とは大きな鳥の意で、その鳥は一度飛び立ったら千里(約4000km)も飛びますが、頼りにするのは主翼にある六枚の羽根だけです。つまり他のこまごました羽根はいっさい役に立たないということです。 それと同じで、時がきたら心機一転、ちっぽけな自分の考えを全部捨て、新しい世界に飛びだすことで、鴻鵠になれるものです。
一生に三度は、運命の大波が寄せるといいますが、そして大波はなぜか人生のどん底にときに訪れるものです。これがいわゆる運というものでしょうが、だからといって、必ずしも成功に結びつくわけではありません。 そこで、そのまま黙って引き下がるか、一か八かの大勝負に出るかの選択に迫られます。そのとは勇気を出して難局を切り開くしかありません。 日々の小さな決断は誰でもしますが、問題は、ここ一番というときにどうするかです。 それ以後の事業や生活が上向くか、下向くかは、そのとき決まります。 |
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