|
アメリカの幼稚園の先生は叱り方がうまいという話があります。 日本のように怒鳴ったりは絶対せず、先生はつねにしゃがみ込んで、子どもと目の高さを同じにするようです。そして、おもむろに子どもの手を取り、静かに話しかける。これは、先生が誰であっても、またどんな場合にも同じであり、子どもたちは、先生にこのポーズで手を取られると、不思議に皆、神妙になり、言うことをよく聞くようになるということです。 この方法が効果を発揮しているのは、第一に、子どもと同じ目の高さにするとか、手を取るとかの動作によって、子どもとの心理的距離を縮め、叱責の内容を頭に入りやすくしているからでしょう。たしかに、叱られることによって、おびえたり不安を感じたりする幼い子には、こうした配慮も必要でしょう。 しかし、そのこと以上にこの方法が効果を発揮しているのは、叱られるときの決まった姿勢、つまり儀式的な色合いが、子どもを厳粛な気分にさせるからという点を見逃すことはできません。
その意味からすると、私たちが少年時代によく体験した、正座をさせられて注意を受けるという日本的なやり方も、もっと見直していいのではないでしょうか。つまり、叱る・叱られるという親子間の行為が、子どもの生活の中で日常化してしまうと、その効果は半減します。 叱る・叱られるというときに正座させられることに意味があるのは、親の側にも日常とは本質的に異なる重大な決意があることを、儀式的なやり方によって印象づけることができるからです。 正座という習慣は、とくに、現代の生活の中でどんどん消え去りつつあるもののひとつです。この習慣がかなり一般的であった私たちの少年時代でさえ、親に呼びつけられ、「そこへ座れ」と言われると、厳粛な気分にならざるを得なかったのですから、今の子どもたちにはそれ以上の効果があるはずです。ふだんは気軽に口をきき合っている親でも、何か今日は雰囲気が違うと、子ども心にも感じないわけにはいかないのです。 武道の世界では、正座するということは、すぐには立てない、動けないということから、攻撃の意思のないことの表明だともいわれています。立ち合いの前後に、神妙に正座して礼をするのは、勝負の公正を期すためとも考えられます。 いずれにしても、正座して面と向かうことは、真剣な対峙の時間を作ることであり、場合によっては、じっくりと腰を落ち着けて話し合うための形でもあります。とくに、日常的な生活の中にない非日常性を演出することによって、子どもにただならぬ雰囲気を感じさせれば、すでに言葉による注意が必要ないほど、雄弁に叱責や訓戒の効果は上がるのです。 耳元を通り過ぎるだけの言葉による注意と違って、威儀を正し、姿勢を決めることによって体から覚えた感触は、長く子どもの体と心の中に影響を与えずにはおかないでしょう。 |
|
|||||||||||||||||||
Copyright (C)2018. 子どもの立派な育て方・しつけ方 All rights reserved. |